Saichi  Matsumoto OfficialWebsite

Potter   Saichi Matsumoto   Kutani Ware
“My idea of ‘Tradition’ is, carrying out the pioneer’s legacy and carrying on innovation.”

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Profile
Introductions (Saichi Matsumoto himself, his activity, history, lineage of Matsumoto Pottery)
Introduction of Saichi Matsumoto
“My idea of ‘Tradition’ is, carrying out the pioneer’s legacy and carrying on innovation.”
This phrase usually comes up in his interviews, “what is the most important thing in your creative activity?” often asked by art critics and editors.
Vases and decorative plates skilfully applied with gold and silver.
Sculptural art forms and wall relief with presence.
There are not many who can tell his artwork is Kutani Pottery.
His art forms exceed the one of usual potters; they are art and craft, household goods, lighting, architecture, etc.
A journalist calls him, “A master of Kutani Innovation”.
He began such a free and lively style and unrestricted art form in his 30’s.
“At the time, Kutani technology was well behind other potteries’, their trading was only copied products from the old Kutani or souvenirs,” recalls Mr. Matsumoto.
He had his doubt about this tendency, and then he and young potters started the experimenting art studio with the theme “freely interpret “a clod of earth”.
Up to this time in Kutani Pottery, the production stages: clay preparation, forming and glazing were all divided labours. His experimenting studio embarked on a new idea, one continuous operation beginning from clay preparation.
It was at the studio in Nono town in 1974. He drew his inspiration from young people in this studio, and he recalls this one continuous operation opened a window to get close to the essence of his creativeness.
Later, he has received twice Nitten Special Award.
In 1985 Mr. Matsumoto has moved his art base to Yoshinodani Village, where he became a leader of “Utopia” for artists and craft men. Today he realizes “A Village of Craft” and continues his creative activity.
JR金沢駅の陶壁 器、手付長皿 オブジェ作品の一例
Mainly Artworks
「色絵葉紋皿」で日展デビュー、次々に特選そして日展審査員を経て日展参与に。
その間社会的な大作「陶壁」を発表、陶芸家の枠を越え環境造形作家として活躍。
1.1952年 「色絵葉紋皿」日展デビュー
2.1972年 陶壁「岩礁に舞う」制作
3.1974年 「日中友好首相みやげ(盃)謹製」制作
4.1982年 陶壁「創生」の制作
5.1988年 「百花繚乱」製作
6.1988年 「花鳥風月」、同年「流水」制作
7.1992年 「石川県国体炬火台」制作
8.1999年 「ゼロと無限」製作
9.2000年 陶板「創生」制作
10.2003年 「デビット・ロックフェラーさんとの交流」
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Saichi Matsumoto – His History of Pottery
“Lineage of Matsuya kiln”
In 1847 the founder, Kikusaburo Matsuya, succeeded to produce white porcelain, Ao kutani, in Rendai-ji kiln in Komatsu. This was the beginning of Matsuya kiln (present Matsuya Matsumoto Studio).The second successor was Kikusaburo’s first son, Sahei Matsumoto, who was a master craftsman with another name “Shooundoo Sahei”.The third successor was Sahei’s first son, Sataro Matsumoto. He was an outstanding scholar and one of his published books was “Teihon Kutani” (claimed to be the original of Kutani ware study). Sataro was said to be the leading expert of Ko Kutani (the Old Kutani) Study. The forth successor was Sataro Matsumoto Jr. who was very good at business and managed through the financial difficult time during the war and post-war. Present and the fifth successor, Saichi Matsumoto, who was born as the first son of Sataro in Kanazawa.His history as a potter in the half century is exceptional as shown below.Today he continues his work energetically every day and night, in search of Kutani innovation.
By Hideki Kyuhara, art critic
1952 Won a prize as first time at the Japan Fine Arts Exhibition, Nitten (Tokyo City bought his work)
1952


1972


1977


1988


1991
1972 Commissioned to craft a gift from Japan to China, to mark friendship between the both countries
1973 Invited to International Cup Exhibition
1974 Commissioned to craft an electric lamp for Akasaka State Guest House
Established the experimental Studio “Matsuya Kiln” in Nono town.
1975 朝日陶芸展で石川県知事賞受賞
1977 Won the Nitten special prize for “Ginsai Kikyu“
1979 Solo exhibition at Isetan Gallery
1981 Won the first prize at Traditional Kutani Ware Craft Exhibition
1985 Built “Uzura House” in Yoshino village and made the climbing kiln
1988 JProduced the ceramic wall “Hyakka Ryoran” for Japan Rail Kanazawa Station
Won the Nitten special prize for “Ginsai Henko”
1989 Produced the ceramic wall “Taki to Taiki” and others for Fujita Gakuen School in Aichi
1991 Produced the torch stand of the 46th Ishikawa National Athletic Meet
1992 Appointed as a judge of the 24th Nitten
1996 Solo exhibition at Ginza Wako Hall
1998 Produced the ceramic wall “Sosei” for the new reception room of Higashi Hongan-ji
Received a medal for his cultural service from Ishikawa Prefecture
1999 Won the first prize at Traditional Kutani Ware Craft Exhibition
2000 Produced the ceramic wall for the social welfare facility “Yagoto En”
2006 Appointed as a Nitten trustee
2011 Appointed as a Nitten councillor
Councillor of Japan Contemporary Arts and Crafts Association
Trustee of Kutani Ware Technique Preservation Society, Intangible cultural properties preservation group designated by Ishakawa Prefecture
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●名門九谷の系譜
松屋菊三郎・松本佐平・松本佐太郎・松本佐一にみる九谷陶磁史
■青九谷の祖・松屋菊三郎から松本家の五彩陶磁の系譜がはじまる。
菊三郎は文政2年(1819年)、能美(今の小松市)に、医師 山越賢了の二男として生まれた。
八日市町の富裕な呉服屋・松屋佐兵衛の養子に入った。弘化4年(1847年)に菊三郎は連代寺村に窯を開き、
文久3年(1863年)頃、青九谷を苦難の末、完成させているが、その間の研究開発の費用は、松屋の資産のためと思われる。
菊三郎の技術伝習。製陶を小松町人の粟生屋源右衛門に学んだ。
天保4年(1833年)菊三郎は佐野村の斉田伊三郎、古酒屋孫次に陶画を学んだ。
21才の頃、豆腐屋市兵衛について5年間、南京写染付の技法を学んでいる。
その後加賀伊万里と称られた赤絵付を創めた武田勇次郎について赤絵を学んだ。
弘化4年(1847年)能美郡連代寺村に師匠の源右衛門を招き、連代寺窯を開いた頃、素地は土まじりの原料であったため黄緑色をおびていた。やがて仁清風に近い陶器となり、ついに完全な磁器となった。
『九谷焼330年』※は、松屋菊三郎の業績について「連代寺窯を改良、本格的に磁器生産に取組んだ。
磁器の明様五彩の着画を施し、いわゆる青九谷の画風を開いた。」と書いている。
その孫の佐太郎は「幾多刻苦研究の後、古九谷と同種の磁器に明代風の五彩を着くるを成熟す、世之を青九谷と称す」と述べた。
120年間閉ざされていた古九谷以来はじめて白磁に五採油の製品を完成させた菊三郎の功績は大きかった。
この高い技術水準こそが明治期に移り、西洋から日本の伝統技術の高い評価を得て輸出振興へ継がって行ったと述べている。
※『九谷焼330年』1986年、寺井町九谷焼資料館の刊行。九谷焼の総合史としての評価の高い出版。
 松屋菊三郎 作 平皿
■万国博への出品、彩筆の名工 松本佐平
佐平は明治元年(1866年)、父 菊三郎の窯を引き継いだ。17才のときであった。
佐平は工房の親方として努め、販売の仕事も精力的に行った。明治8年(1875年)には頭の外国商館をとおして海外へ輸出した。翌年、政府の推薦を得、フィラデルフィア万博へ佐平の最初の海外出品をしている。同年、金沢の画家、徳田寛所より4年間南画を学び、師より「松雪」、「松雪堂」の号を受けた。
佐平はその頃より画風が著しく進化し、十六羅漢・三十六歌仙・百人一首などの人物を細密に描き、これに赤・茶褐・黒・えんじ色を塗り金彩を加えた画風を創めた。これがその後の赤絵九谷の始まりであった。海外で高い評価を得、我国の重要輸出品に指定されている。さらに赤黒釉の上絵付けして窯焼し、その後金彩のみを加えて焼成する二度焼焼成を完成させている。
明治18年(1885年)には、赤地金襴手などの中に割絵を取り、密集した花鳥山水を極細の線を金彩で描いた。その精密さは「恰も織物上に錦糸の刺繍を見る如く」と評された。
このような作家としての極める姿整とは別に、九谷陶磁器産業の発展への功貢がある。
積極的な万国博への参加、明治22年のパリ、26年コロンブス、33年パリ、37年セントルイス、43年ブラッセル、44年ローマと続き、同時に西洋生産方式を学び、陶業分工場を建設、各部門人材育成を軌道に乗せた。
明治43年(1910年)グラスゴー万博参加の佐平は個人で「実視察報告書」を刊行、海外との比較、将来の産業の方針、海外産業界レポート、などをまとめ、問屋、工場経営者、職人、役人などの方々へ頒布している。
明治30年代の経済恐慌のあおりは陶磁器産業へ著しく働き、佐平の松雪堂も倒産している。その時の佐平の誠実さ、純潔な性格は代々語り継がれている。

グラスゴ-万博にて右・佐平

明治32年 作

明治26年 作

明治42年 作
■倒産からの脱出、陶界のプロデューサー松本佐太郎
佐太郎は明治11年(1878年)、松本佐平の長男として生まれた。中学進学を願っていたが、父佐平の指示で丁稚奉公へ行くが、中学の通信教育、早稲札大学の通信教育、ベルツ万国語学校へも同じく通信教育で英・独・仏・伊語を4年間学ぶ意欲的な人であった。<BR>
明治36年(1903年)父、佐平の松雪堂が倒産、父の親しくしていた同業の谷口吉次郎の経営する谷口商店に親子とも勤めるようになった。
谷口吉次郎がいなければ佐平の晩年、佐太郎の活動もなく、松本家の存在もなかったといって過言ではない程だった。<BR>
明治40年(1907年)には、佐太郎はロンドン開催の日英博覧会誘致について、アイルランドやスコットランドの関係者の相談役となっていた。佐太郎が日本人として海外から高い評価を受けていることを示している。その後佐太郎は、明治43年日英博覧会視察でロンドンを訪問中、石川県よりイタリア万国博覧会の仕事を依頼され4年間欧州に滞在している。当時のヨーロッパの産業、文化、政治について、彼の著作「欧州陶磁器業の現状」から窺うことができる。
昭和元年(1926年)加賀九谷陶磁器同業組合の評議員、石川県商工連合会会長、等の多くの役職に就任している。又、これらの役職を通しての産業界の活動とは別に、研究者としての活動も多く残している。古九谷研究会の発足、昭和4年(1929年)「古九谷研究趣意書」の出版、「九谷陶磁器史考草」、「九谷陶磁器史」、等の出版が続き、「定本九谷」の出版は彼の研究の集大成で、現在でも九谷研究のよりどころとなっている。
このような多くの著作の他に講演、劇作家、ラジオ放送などを通して九谷の啓蒙とPRを行い“陶界のプロデュサー”と呼べる活躍をした人であった。

金沢放送局「九谷焼の現状と将来」を放送

昭和11年 作

昭和11年 作
■継承と革新の作家、松本佐一へ
松本佐一の父・外吉は能美郡(現・小松市)の農家出身で金沢市の九谷金陽堂に丁稚奉公した。佐太郎がその真面目さを大変気に入って、松本家の養子となった。金沢商業学校を主席で卒業、大阪の日本貿易(株)に入社。佐太郎が金陽堂を経営することになり、金沢に戻り、公職に忙しい父に代わり会社を取り仕切るようになった。
 松本佐一は外吉の長男として昭和5年(1930年)金沢で生まれた。金沢美術工芸専門学校(現・金沢美術工芸大学)で学び、京都の国立陶磁試験所に入り、陶磁器についての科学的基礎を学んだ。二期(1ヶ年)終了後、父外吉に「家業を手伝って欲しい」といわれて金沢に戻った。その帰郷した年(昭和27年)、第8回日本美術展覧会(以下、日展という)に初出品、初入選、その上作品「色絵葉文飾皿」は東京都の買上となった。それは大きな喜びと自信を彼に与えた。
 当時、九谷焼は上絵付と生地づくりは分業となっていた。このような分業は一定品質を安定供給するには、大切な手法だった。しかし生地をつくってもらう時、制作者の意図が十分伝わることも難しかった。佐一は生地づくりからの一貫して研究すべきと考え始め、後に「実験工房」を立ち上げることになる。
 昭和45年(1970年)佐一は徳田正彦(三代八十吉)氏とともにヨーロッパへ旅立つ。南仏のピカソ陶芸美術館では国際陶芸展が行われていて、日本の陶芸水準の高さを再認識した。パリのルーブル、ロンドンの大英博物館、ルーマニアなどの東欧にも足を伸ばした。
 昭和47年(1972年)日中国交回復に際し、田中総理の土産のひとつとして佐一のぐい呑みが納められ、パーティーの乾杯に使われた。
 昭和49年(1974年)旧赤坂離宮が迎賓館として使用されるに際し、電気スタンド2基を製作している。そしてこの年、金沢郊外、野々市に「実験工房」をスタートさせた。作家としての基本ポリシー“一貫生産”態勢をここに確立することになる。<BR>
 この後、さらに理想郷を求め、白山麓吉野谷村に「吉野工芸の里」構想とその実現を現実にして行きます。

石川郡吉野谷村にある工房「鶉荘(うずらそう)」

モニュメント除幕式での松本佐一
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